天下台山


参考地図 (フレーム順:北東〜南西)       

相生駅+双葉2丁目+赤坂1丁目−金比羅宮−登山口〜岩屋谷池〜    〜古池分岐−長池−双葉中−〒局−

〜岩屋谷池〜東尾根分岐〜山頂〜展望台〜北尾根コース分岐〜えぼし岩〜トンビ岩〜分岐〜

−相生〒局−相生大橋−道の駅−西相生駅

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

付属資料

<相生市>

西播地域の真ん中位置し、鉄道や幹線道路も比較的整備されている。北部の三濃山、東部の
天下台山、西部の宮山等を含め、市の周辺は小高い山に覆われた盆地のようになっている。
南部には瀬戸内海の中でも深く入り組んだ相生湾がある。万葉の岬こと金ヶ崎や、遠見山公
園等からの眺望がある。北部には播磨科学公園都市がある。相生市の範囲にはないが、副母
都市として交通等の面において重要な関係にある。                 
WikipediaExt.

市名の由来;

大嶋城の城主となった海老名氏が相模国(現在の神奈川県海老名市)出自であることから、
海=浦名として呼ばれていた「おお」に相模生まれの漢字を宛てたのが「相生」の由来と
いう説が有力である。
1913年1月1日に周辺の村に先駆けて相生町となる。以前は「相生(おお)村」と呼ばれていた
(歴史的仮名遣では「あう」)。現在でも相生市相生の集落の一帯を、通称「おお」と呼ぶ。
このため、「O」という地名であるとしてギネスブックに「世界最短の地名」の一つとして掲載
されていたことがある(現在の邦訳版にはない)。
「相生」という言葉は、日本全国で相生町や相生村等地名として使われているほか、語句とし
ても使用されることがある。これらは、直接「相生市」とは関係がないものと思われる。
現行の日本の市町村を五十音順に並べると、当市が一番初めになる(2005年迄は秋穂町(あい
おちょう、現・山口市)が存在したため、市町村では一番初めではなかった)。   
WikipediaExt.

相生ペーロン祭;

相生市の相生湾特設会場にて毎年実施される、「ペーロン競漕」を軸とした祭イベント。過去、
市内には播磨造船所(現・IHI)があった。1922年(大正11年)長崎県出身の従業員により社内
行事としてペーロンが紹介されたのが、相生におけるルーツだと云われる。終戦までは毎年
5月27日の「海軍記念日」に、同社構内にある天白神社の例祭として、ボートレースと共に
ペーロン競漕が行われていた。
戦後になり、相生市・商工会議所・播磨造船所の共催による「相生港まつり」が誕生。1962年
相生市・商工会議所・石川島播磨重工業が、相生ペーロン祭協賛会を結成。翌1963年から
「相生ペーロン祭」となり、現在に至る。2020年は中止、本2021年は5月30日開催。(花火大会、
露店の出店禁止、マリンスポーツ体験等すべて中止、ペーロン競漕のみ開催)   
市のHP抜粋

<大島山桜公園>

相生の入り江に映る標高30mの山には、大嶋城(おおしま)があります。相模の国から入った
海老名盛重は、ここの地に「相」字をつけました。それが「相生市」という伝説があります。

もともとは相生湾に浮かぶ島であり、後に赤松氏の家臣である海老名氏が山頂に城を築いた
と云われている。この大島城は、長治元年(1104)播磨海老名の祖・家季がここに城郭を築いた
のが始まりいわれています。
城主・海老名氏は、代々矢野荘別名の下司職、矢野荘例名の地頭職等に任じられた豪族です。
建武三年(1336)、別名の下司職であった七代・景知は、赤松円心に属し、弟の詮季や同族の
泰知と共に白旗城にたてこもって、新田義貞軍と戦い功績をあげましたが、留守にしていた
大島城は、新田軍に組した者によって焼き落されたといわれています。

また江戸時代中期の文書によると、「大島城は那波城とも言う。丘ノ台は二の丸で矢倉跡、
今は畠となる」とあって、この城の規模を知るてがかるとなります。
        街の史跡HP抜粋


<三角点情報>

*321.3m(天下台山) 二等、相生(点名) 34°47′53″N、 134°29′37″E  
                                                   
国土地理院

 

<調査>歩行 21/03/27>

相生駅

登山口の岩屋谷公園

岩屋谷池(階段が続く)

東尾根への分岐を左に山頂へ上る

広い山頂には反射板もある

トンビ岩 /rollover

金比羅宮に降りる

 

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