船 山

 

参考地図 (フレーム順:北〜西〜南)

市原駅−P144−十三石橋−

−十三石橋−京都一周トレイル取り付き〜盗人谷・一の橋〜三の橋〜小峠・十三石山分岐〜

〜小峠〜氷室神社〜京見峠方面分岐〜林道〜

〜林道・檜谷三号橋〜西賀茂方面分岐〜尺八池分岐〜船山〜

〜船山(火床往復)〜西賀茂林道出合〜林道出口一川上公園−市バス西加茂車庫前

地理院地図・電子国土Web  Scale  100m

 

 

参考情報

<氷室>                                    (京都観光Navi)

鷹峯から北へ約6キロ。山間集落の地名になっているが、もとより氷室は古代の氷の生産貯蔵
地。平安遷都により京都の周辺に6カ所の氷室が設けられ、ここはそのうちの一つで現在確認
できる唯一の場所。氷室跡は現在3カ所残り、約20平方メートルの窪地で、氷を造った池は5カ
所あり、今は灌漑用水池になっている。また氷室、氷池の守護神氷室神社が祭られている。

<氷室神社>
                           (参考:京都・山城寺院神社大辞典)

祭神;稲置大山主神、不明の末社が二柱、神徳;痘瘡の神
由緒;旧村社。山城愛宕郡にあった五箇所の氷室の一つ、栗栖野氷室近くに祀られた。
成立年不詳。栗栖野氷室は「延喜式」主水司にみえ、当社は禁裏に供御する蔵氷に携わった
清原家が勧請したと伝える。「山城名跡巡行志」「拾遺都名所図会」に載せられた境内図と現在
の配置は一致する。拝殿は方一間、柿葺、正面に唐破風、両側面に千鳥破風、蟇股には桃山
風の花鳥彫刻。寛永13年、御水尾天皇の二の宮が近衛尚嗣に降下した時に造営された御殿
の鎮守の拝殿と伝える。
『日本書紀』仁徳62年に氷室が文献による初見で、額田大中彦皇子が大和闘鶏に狩に出た際、
山中で氷室を発見し、氷を天皇に献上したと記載されている。氷室の産土神で氏子八軒によって
宮中に氷を献上した6月15日に例祭が行われる。

<五山送り火(ござんのおくりび)>

京都五山送り火とも言う。毎年8月16日に京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)などで行わ
れるかがり火。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。葵祭・祇園
祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる。

点火時間は1962年迄まちまちだったが、1963年から観光業界からの要請により大文字が20時
丁度の点火となり、反時計回りに20時10分から松ヶ崎妙法、20時15分から船形万灯籠および
左大文字、20時20分から鳥居形松明と固定化した。2014年に51年ぶりに点火時間が変更され、
松ケ崎妙法、船形万灯籠が夫々5分点火時間が早まり、変更により5山が5分おきに点火されて
いくことになる。

「大文字」(左京区浄土寺・如意ヶ嶽(大文字山)。20時00分点火)
「松ケ崎妙法」(左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
「船形万灯籠」(北区西賀茂・船山。20時10分点火)
「左大文字」(北区大北山・大文字山。20時15分点火)
「鳥居形松明」(右京区嵯峨鳥居本・曼荼羅山。20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、お精霊さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。

<送り火の起源・歴史>

山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われて
いるが、公式な記録が存在するわけではない。場所と行為を具体的に特定した史料が登場
するのは近世に入ってからである。 『雍州府志』によると、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として
行われていたとして紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する
性格を持っており、大文字、妙法、船形、加えて所々の山、原野で火を点けていた。

なお、以前の京都は過度の森林利用のせいでハゲ山が多く、森林は少なく、それが故に送り
火という文化が産まれたのではないかという説がある。
                                                    
以上

 

<調査歩行 22/5/15>

出町柳駅から叡山電車に乗換・市原駅で降車

十三石橋の先の京都一周トレイル入り口に取り付く

盗人谷:2018-19年の台風被害で倒木が進入を阻んだが通行可能となった

質素な氷室神社 / rollover 本殿

京見峠方面を分岐、船山への林道脇にも倒木の残骸 / rollover 堰堤下の3号橋

船山頂上 317m

五山送り火・船形の火床 (聖域なので進入禁止の看板)

西賀茂林道に出合い、市街地へ下山

京都市バスの西賀茂車庫角から、船山の姿が見える

 

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