天誅組【てんちゅうぐみ】 <観心寺から五条林道、千早峠を駆け抜けた> Wikipedia Extracted 
         
        幕末,吉村寅太郎・松本圭堂らが,土佐藩・鳥取藩・島原藩・刈谷藩・久留米藩などの 
        脱藩武士を中心に,倒幕を目的に結成した尊攘激派。天誅組の称は結成時のものではなく, 
        〈天誅〉は当時京都で続発した尊攘急進派による組織的テロのスローガン。1863年8月17日 
        の大和五条代官所襲撃時の浪士約50人。その後,大和十津川郷士約1000人が参加。 
         
        <概要> 
        文久3年(1863)8月13日、孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行 
        幸) 8月14日夜、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、 
        攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて京を出発した。彼らは伏見から淀川を下って 
        大坂から海路で堺へ再上陸。これに従軍した半田門吉の『大和日記』によると結成時の同 
        志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。このほか淡路 
        島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金 
        として供出した。 8月17日夕方、五条の町へ着いた彼らは、幕府天領の大和国五条代官所 
        を襲撃。代官鈴木正信の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。桜井寺に本陣を置き五条 
        を天朝直轄地とする旨を宣言し、御政府あるいは総裁所と称した。五条御政府と呼ばれる。
         
         
        <八月十八日の政変> 
        大和で天誅組が挙兵した直後、京では政局が一変していた。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた 
        中川宮が尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こした(八月十八日の政変)。 
        これにより、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任が 
        決定された。 これらの決定は会津藩ら諸藩兵により御所を封鎖した上で行われ、宮門に 
        駆けつけた長州藩兵との間で一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、 
        攘夷派公卿は官位を剥奪されて失脚した。朝廷の実権は公武合体派が握ることになった。 
        長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚し、攘夷親征を目的とした大和行幸は中止となった。 
         
        挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となった。 天誅組は天の辻 
        の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発し、吉村寅太郎は五条の医師乾十郎と共に 
        十津川郷(奈良県十津川村)に入り、反乱に加入を説得。 その結果、野崎主計ら十津川郷士 
        960人を募兵して兵力は膨れ上がったが、烏合の衆に過ぎずその武装は貧弱なものだった。 
        十津川の人々も半ば脅迫されて急きょかき集められた。しかも休息も食事もなく戦闘に参加せ 
        られるなど、戦意に乏しかった。  
        あまりの酷さに玉堀為之進や植田主殿ら十津川郷士は指揮官に抗議したが、中山らに憎まれ 
        天辻峠で斬首されている。  天誅組は高取城を攻撃するが、少数の高取藩兵の銃砲撃を受けて 
        混乱して敗走。この時点で三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥のように早々に脱走する者も 
        出た(後に伊藤は松本奎堂の密書を岩倉具視に届けたと弁明しているが、岩倉具視と松本奎堂 
        の関係を考えればあり得ない事である。伊藤三弥と同郷の碩学森銑三は「脱走した三弥の言い 
        訳に過ぎない」と断じている)。伊藤三弥の脱走は天誅組の脆弱さを示す例として引用される。
         
         
        <天誅組終焉の地碑(東吉野村)> 
        幕府は諸藩に命じて大軍を動員をして天誅組討伐を開始する。天誅組は激しく抵抗するが、主 
        将の中山忠光の指揮能力が乏しいこともあり敗退を繰り返し、しだいに追い詰められ、朝廷か 
        ら天誅組を逆賊とする令旨が京都在住の十津川郷士前田雅楽に下され、急遽現地に赴いた 
        前田は十津川郷士を説得。ここに主力の十津川勢が9月15日に離反。郷士代表の野崎は自害 
        する。9月19日、忠光は天誅組の解散を命じる。残党は伊勢方面へ脱出を図るが、鷲家口(東吉 
        野村)で幕府軍に捕捉され、吉村、松本などのわずかに残っていた兵達は相次いで戦死または 
        捕縛されるなどして壊滅し、最終的に幕府の追手から逃れる事ができたのは忠光以下たったの 
        7人だけだった。志士達は京都霊山護国神社(龍馬の墓もあり、高台寺の近く)に祀られている。
         
         
         
          
        吉村寅太郎の墓 (京都霊山護国神社
        as 2019.Oct.) 
          
        坂本龍馬・中岡慎太郎の墓 (京都霊山護国神社
        as 2019.Oct.) 
          
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